奈良きたまち

〜歴史のモザイクのまち〜

きた御門みかどから雑司ぞうし、川上町へ

東大寺の北側。静けさがいっそう増し、古い町並みが広がります。

鼓阪つざか小学校

鼓阪小学校
鼓阪小学校

「つつみさか」と書いて、「つざか」と読みます。鼓阪小学校は、東大寺境内を校区に含み、東を正倉院、西を転害門という世界遺産に接する、奈良市立の小学校です。東大寺尊勝院跡に奈良町第三小学校として、明治11年に開校。120年を超える歴史があり、国宝の転害門は、小学校にとっては正門のようなものです。贅沢な話です。

お寺の巨大な屋根と見間違うのは、昭和11年に建てられた本瓦葺きの講堂で小学校のシンボルになっています。当時は奈良市の公会堂も兼ねた立派なもので、東大寺を意識したデザインで、円い柱、回廊、車寄せまで付いています。取り壊しで有名になった豊郷小学校の講堂より、1年あとに建てられたものです。

校名の由来となった「鼓阪」は、小学校の東側、正倉院の柵の中にある100mほどの坂です。(柵の間から見ることができます)東大寺転害会の時に、楽人が、この坂で楽器を演奏したことからこの美しい名前がつきました。

ちなみに、明石家さんまさんは卒業生で、彼が捕らえたムササビの剥製は今も小学校にあります。

仏教美術保存の恩人 新納にいろ忠之介ちゅうのすけ

鼓阪小学校のすぐ北、雑司町に武蔵野美術大学奈良寮があります。もとは、奈良をはじめ、全国2000点を超える神仏像の修復作業をおこなった、新納中之介が明治34年から居を構えた屋敷です。鹿児島の出身で、東京美術学校を卒業。岡倉天心の勧めで、古美術修復の道に入りました。

明治40年には、奈良を戦災から救った若きウォーナー博士が古美術について新納に師事しています。昭和27年に86歳でなくなりました。今も、人々が天平や鎌倉時代の国宝にふれられるのは、新納中之介のおかげだといえます。

松尾芭蕉の見た大仏

大仏池から望む東大寺
大仏池から望む東大寺

旅の俳人、松尾芭蕉は、貞享元年(1684)から元禄七年(1694)まで、「野ざらし紀行」や「笈の小文」の旅などで、5回にわたり大和を訪れ、各地で句を詠み、南都でも鹿や大仏、お水取りなどを詠んでいます。当時はまだ大仏殿は再建されておらず、雨ざらしの大仏を見たことになります。このときに佐保川の石橋も渡ったことでしょう。

「水取りや氷の僧の沓の音」は有名ですが、大仏を詠んだ句に、「初雪やいつ大仏の柱立」とあり、大仏殿の再建は始まったものの、未だ露座の大仏に雪が降りかかる様子から、いつになったら柱立てがおこなわれるのだろうと嘆いています。きっと芭蕉もきたまち辺りを歩いていたはずです。

知足院と東円堂のヤエザクラ

知足院
知足院

奈良時代、御蓋山にあったものが聖武天皇の時に、宮中に移され、さらに興福寺東円堂の庭に移し替えられたとか。今はない東円堂のあったところが県庁の東側の県営駐車場。

大正12年に東大寺知足院の裏山にあったヤエザクラが天然記念物に指定されたのを記念して、これをゆかりの東円堂のあったところに分植したとのこと。昭和43年には奈良の県花に選ばれ、今では県内の公園などに多数植えられています。

正倉院の宝は国宝ではない

正倉院の御物は国宝ではないことをご存じですか。実は、天皇家の財産であり、国宝指定はされていません。ただし、建物は、奈良が平成10年に世界遺産に登録されることをうけて、何もなしでは困ると言うことで、平成6年に国宝指定されたものです。

白蛇川のはなし

白蛇川
白蛇川

春日野苑地から東大寺本坊の北側から、東大寺整肢園、西塔跡、真言院などの前を流れる川を、白蛇川といいます。その昔、東南院に住む聖宝僧正を害そうとした大蛇が、僧正の呪縛によって倒れたのを切り捨てて、この川に捨てたところからその名がついたと言います。東南院は今の東大寺本坊にありました。

空海寺

空海寺本堂
空海寺本堂

弘法大師空海は、あまりにも有名ですが、空海が東大寺と深い関わりがあることをご存じでしょうか。讃岐の国に生まれた空海は、22歳の時(延暦14 ・794)に戒壇院で受戒して空海と名乗りました。その後唐に渡り帰国後の弘仁元年(810)37歳の時に東大寺別当に任命されています。

空海寺は、その名のとおり、開山は弘法大師と伝えており、空海はここを草庵としたといいます。 本尊は石に刻まれた地蔵菩薩で、全体は仏竈になっていて秘仏となっており、穴地蔵とも呼ばれ、60年に一度しか拝観できません。

棚田嘉十郎墓 矢田地蔵
棚田嘉十郎墓と矢田地蔵

表門を入ると平城宮跡保存主唱者棚田嘉十郎墓と刻んだ大正12年建立の石塔が目を引きます。中門をくぐると本堂の左前に舟形光背の矢田地蔵がおられ、北山の夕日地蔵に対して朝日地蔵とも呼ばれています。本堂の裏山が、東大寺各院などの墓地になっています。

川上町恵比須神社と禊ぎ

町並みをぬけて、佐保川を遡っていったところに、恵比寿神社があります。毎年11月19日に秋の祭礼で賑わいますが、普段はひっそりとした神社です。東大寺二月堂の修二会に関わりが深く、昔は、修二会に参加する僧侶が、恵比寿神社の前の佐保川で禊ぎをしてから籠もるしきたりになっていました。今は、佐保川の水を汲んで、籠もりの僧の頭に、降りかけることにしているとのことです。

川上蛭子えびす神社

川上蛭子神社
川上蛭子神社

南市町にある恵比寿神社ができるまでは奈良町の芸子は籠に乗ってこの川上蛭子神社にお参りに来ていたそうです。毎年11月19日に秋祭りが行われ、豚汁が振舞われます。

宝蔵院流槍術を伝える習心館道場

北御門町には、宝蔵院の槍を受け継ぐ習心館道場があります。宝蔵院流槍術は、道場主の鍵田忠兵衛氏により、明治維新から100年以上を経て、再び奈良に戻ってきました。毎年、秋に宝蔵院ゆかりの興福寺において、奉納演武会が催され、その勇姿を見ることができます。

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