奈良きたまち

〜歴史のモザイクのまち〜

水門町界隈

東大寺境内と旧京街道との中間辺りにある落ち着いた町並み。静けさが漂う大人の散歩道。

小野小町と威徳井いとくい

威徳井橋 威徳井
威徳井橋と威徳井

奈良街道が吉城川と交差するところに威徳井橋が架かっています。この橋の北側にある押上町自治会館に、威徳井と彫られた小さな井戸枠があります。この井戸は、名水として有名でしたが昭和のはじめの道路拡張工事で、橋の南側から、井戸枠だけ移されました。

昔、小野小町が奈良を訪れた際に、この井戸をみて「したしきが同じ流れや汲みつらん おとどひの子やいとこいの水」という歌を残しています。吉城川と威徳井の水が、兄弟のようであるという意味。従兄弟井=威徳井となったといわれています。

板東妻三郎と戒壇院

戒壇院と土塀
戒壇院と土塀

宇田滋樹さんの「ぶらり奈良町」(地域雑誌)に、板東妻三郎の「雄呂血」の撮影が戒壇院周辺であり、撮影スタジオまであったという記事を見ました。手元に雄呂血の1ショットのコピーがあったので、写っている土塀の石の形を現地で確認したら、やはり戒壇院の塀でした。

吉城よしきえん依水いすいえん

依水園と吉城園
依水園と吉城園

吉城園は興福寺古絵図によれば、興福寺子院の摩尼珠院まにしゅいんのあったところで、明治に民間所有となり、大正に現在の建物と庭園が造られ、平成元年4月から庭園鑑賞や茶会に利用できるようになりました。

依水園は、若草山、春日山、三笠山を遠景に、東大寺南大門を借景にした奈良随一の庭園です。知る人ぞ知る紅葉の名所で、市街地の中にありながら忙しさを忘れ、静かな時を過ごせる場所です。

尼橋の妖怪のはなし

下水門橋
下水門橋

水門町に、吉城川にかかる下水門橋があります。かつては尼橋と呼ばれていました。この橋の付近で、夜になると比丘尼の姿をした妖怪が現れ人を驚かせたところから尼橋の名が付きました。

下水門橋下水門橋下水門橋

玄肪げんぼうの眉目塚・胴塚

玄肪は聖武天皇の時代、藤原4兄弟に代わって橘諸兄とともに政治をおこなった高僧。これを快く思わない藤原広嗣が九州で乱を起こしましたが、鎮圧されました。

玄肪が後に九州に赴いたとき、藤原広嗣の悪霊に空中に引き上げられ、バラバラにされ、平城京のあちこちに落ちてきました。頭が落ちたのが割石町の頭塔。肘が落ちたのは、肘塚。きたまちでは、大豆山町に眉と目が落ちました。宗徳寺に眉目塚がありました。胴体が落ちた水門町には胴塚弁財天があります。

知事官舎とサンフランシスコ講和条約

県庁のすぐ東側から水門町にかけての一画は、多くの寺院が軒を連ねた奈良の風景を偲ばせる景色が残っています。

ひときわ高い塀で囲まれた知事官舎は、かつて興福寺の子院であった「佛地院」のあった場所で、現在の建築は大正11年に建設されたものと伝えられています。。昭和26年に、戦後日本が再び独立を得たサンフランシスコ講和条約が締結されました。その批准書に天皇が署名された部屋が、この知事官舎に残されています。ダイナミックな昭和の歴史の雫がここにもありました。

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