奈良きたまち

〜歴史のモザイクのまち〜

奈良阪辺り

旧京街道の北端。かつての交通の要所で、様々な歴史の表舞台に登場します。奈良坂、般若坂とも呼ばれます。

般若はんにゃのこと

創建には諸説有りますが、天平年間に初めて名が登場しています。最盛期には、学徒千人を数える規模でした。楼門(国宝・鎌倉時代)、十三重石塔(国重文・鎌倉時代)は、宇治浮島の十三重石塔とともに鎌倉時代を代表する石塔です。奈良街道をふさぐような形で、般若寺がつくられているところから、京都への南都諸寺の出城のような位置づけがあったのかも知れません。

そういったことから、平家物語では大激戦地となり、平重衡四万余騎に対して、南都衆人七千余騎がこの坂(寺)で激突。南都側はよく持ちこたえたのですが、最後には焼失してしまいます。そして、東大寺、興福寺など天平の名刹がことごとく灰燼に帰したのです。

鎌倉時代になって、僧叡尊えいそん忍性にんしょうにより再建されましたが、松永三好の戦いでまた焼失しています。大仏を焼いた重衡の墓は、お隣の木津町に立派な石塔として残っています。太平記では、大塔宮護良親王が隠れた唐櫃のエピソードが有名です。

宮本武蔵の般若坂の決闘もこの辺り。とにかく、京都からの街道が、最初に奈良に入る交通の要衝でしたから、多くの歴史ドラマが生まれました。

宮本武蔵 般若はんにゃざかの決闘と槍の宝蔵院

NHK大河ドラマで、般若坂の決闘の舞台。武蔵がこの坂を登っていったのです。残念ながら佐保川にはまだ石橋は架かっていませんでした。

このときの一方の主役が槍の宝蔵院ですが、いまも北御門町に鍵田忠兵衛氏が、宝蔵院流の槍の達人でおられました。このとき登場する宝蔵院流槍術2代目の胤舜のお墓は、般若坂を見下ろす伴墓にひっそりとたたずんでいます。

たいらの重衡しげひらの南都焼討ち

太平記によると、治承4年(1180)、以仁もちひと王は、平家打倒の兵を挙げたものの宇治橋の合戦に破れ、平家に追われて南都をめざして逃れてきました。味方する南都七大寺の大衆三万余が、救援とばかりに般若坂を駆け上がり、木津まで来ましたが、一歩及ばず、目前で以仁王が討ち死にし、むなしく南都に引き返しました。

その年の12月28日に、平重衡を総大将とする4万余騎の軍勢が南都を攻撃。般若坂では、悪僧(悪は、武に秀でた強者と言う意味)と言われる南都の僧兵が奮戦し、一進一退の激戦となりましたが、夜には突破されます。重衡は、般若寺の門前に立ち、町に火をかけるよう命じました。冬の強い西風で、南都七大寺は、瞬く間に火炎に包まれ、一万人以上が焼け死に、大仏も首が落ち熔けてしまうほど。まるで地獄の様を呈したと伝えています。

今の平和な奈良からは想像もつかない戦場が当時の奈良の光景です。 このとき、転害門は焼失を免れ、大仏殿のすぐ裏にある正倉院も奇跡的に類焼しませんでした。

北山とお茶

鎌倉後期から南北朝期にかけて全国屈指の茶の産地として南都の般若寺と大和の室生寺があげられています。また、東大寺に残る応永年間(1394〜1428)の転害郷や川上荘の茶行関係文書からは、北山と呼ばれる丘陵地で茶の栽培がさかんであったことがわかります。(人づくり風土記)

石田三成の侍大将嶋左近のお墓

三笠霊園嶋左近墓碑
三笠霊園嶋左近墓碑

三笠霊園のつづら折りの坂道を上り、きたまちや多聞山城を見渡せる斜面に東大寺の僧の墓所があります。このあたりは、昔大伴氏の氏寺であった「伴寺」があったところ。このなかに筒井順慶の家老で松永久秀とも戦い、その後石田三成の侍大将として、関ヶ原で討ち死にした嶋左近のお墓があります。

当時「三成に過ぎたるものあり、嶋の左近に佐和山の城」といわれ、三成が領地4万石の内半分の2万石で左近を召し抱えたとも伝えられるように、日本中に名を知られた武将でした。 平成4年に五劫院により碑が建てられています。

植村牧場

植村牧場きたまちには、住宅地の中に牧場まであります。明治17年、健康のために牛乳を飲もうと、牛一頭を飼うようになったのが牧場の始まりです。今は、30数頭が飼育されています。搾乳から瓶詰め、宅配まで一貫しておこなっています。気になる牛の糞は、オガクズと混ぜて堆肥にし、近所の農家に利用してもらい、農家からはエサの野菜葛を提供してもらうといった地域循環の仕組みを工夫されています。

また、牛舎としては、全国的にも最古のグループになるということです。 牛乳やソフトクリームを販売していますので、きたまち散策に疲れたら、一休みしてはいかがでしょう。

旧奈良監獄と山下洋輔のおじいさん

奈良旧奈良監獄
奈良旧奈良監獄

明治41年に建造されました。奈良を代表する明治の建築です。般若寺の目と鼻の先ですが、知らない人が多い。ヨーロッパ中世の城や修道院を参考に設計された赤煉瓦造りの美しい建物が見えます。設計者は、ジャズピアニストの山下洋輔さんのおじいさんにあたる山下啓次郎です。これも歴史の雫。

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